目の前に広がるのは澄み渡った海。 少し身を乗り出して見下ろしてみれば、そこにはヒトデやらツブやらが張り付いた岩場。 広く青い空を飛んでいく白い鳥はカモメではない。ニャアニャアなくのはウミネコだ。 ざぁざぁという波の音が響き渡るここは、美富島の漁港。 大きな倉庫から箱一杯の魚が運びだされていく光景は、なかなか壮観なものだった。 しかし豊富な海資源に囲まれた島である美富島といえども、獲れる魚が全て大きいわけではないらしい。 オッサン「うっし、こんなもんだろ!」 夏輝「あ、あざーす……」 俺が持たされているのは発泡スチロールの箱。 売るには少し小さすぎる魚を数匹詰めてもらったもの(オマケ付き)だ。 ……箱の中を何かがビチビチと動き回る感触が手に伝わってくるぜ。 オッサン「もう少し早けりゃアラ汁とか食えたんだけどよ」 夏輝「魚だけでいいですよ。ありがとうございます」 オッサン「海で食うアラ汁はうめぇんだけどなぁ。店で売ってるやつは活きが悪くていけねぇわ」 カラカラと高笑いする漁師のオッサン。 黒く焼けた肌に隆起した、スポーツ選手とは違った構造の筋肉が目を引く。 街で見るような、ワイシャツとスーツパンツを着てネクタイを締めた、余裕のない大人とは何もかもが違う笑顔。 ……人生楽しんでいそうだよなぁ。 夏輝「んじゃ、早く帰らないと紗耶に怒られるんで」 オッサン「あー、紗耶ちゃんは怒ると怖いわな。ありゃあ俺の母ちゃん並みだわ」 夏輝「……といいますと?」 オッサン「ウチの母ちゃんな、怒ると鍋ブタが円盤のように飛んでくるんだわ。ベニヤっつーかコンクリくらいなら割るぞありゃ」 夏輝「怖ッ!」 オッサン「だろー。ほれ、ここ。痣になってるだろ?これも鍋ブタよ!ハッハッ!」 ……笑いながら言う事なんだろうか。 そう思いながらも心のどこか片隅では、やっぱり人生を楽しんでいそうだ、と思った。 オッサン「つーかお前さ、小さいころここにいたよな?」 波がぶつかって砕ける防波堤。 そこに俺は腰掛けて、オッサンと共に談笑していた。 傍らにある発泡スチロールの中の魚が少し心配だけどね。 水が温くなって死んだ、とかないよな? 夏輝「へ?ええまぁ」 記憶力良いな。本人さえ忘れてるのに。 オッサン「お、正解か。俺もまだまだ捨てたもんじゃないわ!」 バスバスと音が立つほどの力で肩を叩かれる。 痛いんだが、紗耶の一撃ほどじゃないなー…… 紗耶って本当に女の子なのか? オッサン「ちっちぇころはここいらを紗耶ちゃんとももちゃんと、あとあやめちゃんとで一緒になって遊んでたぞ?」 少し胸に走る痛み。 それは、大切だった想い出を忘れたことへの後ろめたさだろうか。 夏輝「……覚えてないですね」 オッサン「ま、しゃあないわな。そりゃあもう本当にちっこかったし。こんくらいか?」 何かをつまむようなモーションされてもなぁ……いくらなんでも指先で表現できるほど小さくないだろ。 俺は受精卵か。 いや、この島の生まれなら間違えてないかもわからんけど。 オッサン「ほれ、あっちの方。あれくらいは覚えてるか?」 指を刺したのは定期船が係留される埠頭。 夏輝「定期船乗り場ですよね。なにかありましたっけ?」 オッサン「あそこで紗耶ちゃん一回死にかけた。あそこで溺れたんだよ」 夏輝「マジっすか!?」 オッサン「おうよ。あそこで泳いでて、いきなり溺れちまった紗耶ちゃんを助けたのって確かお前だぞ?」 夏輝「マジで!!?」 初耳なことが色々ありすぎて笑えるほどに驚きだ。 紗耶でも溺れたりはするんだな、と思うと少し面白い。 オッサン「おうよ、溺れた紗耶ちゃんを助けて浜まで引っ張り上げて、そこにいた『若くて』『格好良い』漁師に助けを求めたって話さ」 とりあえず、オッサンがサムズアップしながら自分を示しているのはさておいて。 夏輝「本当に覚えてないっすわ」 オッサン「ちっ、つまらねぇな。必死こいて紗耶ちゃん担いで泳いできて、そのまま浜にダウンしてよ。親からやたら怒られたのに」 夏輝「怒られた記憶すらありません」 オッサン「勿体無ぇなぁ……それをネタにしちまえば紗耶ちゃんだってグラングランくるのになぁ」 夏輝「だがそれはない」 オッサン「あれ?お前は紗耶ちゃん狙いじゃないのか?つまらんなぁ」 夏輝「だって紗耶ですよ?何かヘマをしでかすたびにどこかの格闘マンガで見たような技が飛んでくる紗耶ですよ?」 オッサン「確かにかなり元気は良いけどよ、顔はそこいらの女よりは遥かに良いし、家事だって出来ると来たもんだ。全く勿体無い」 夏輝「はぁ……」 オッサン「そういや、休みじゃない時は本土の学校にいるんだよなぁ……なら、恋人くらいはいるか。どうよ、そこんとこ」 夏輝「いえ、聞かれましても」 知らんがな。 でもまぁ、たしかに。 紗耶といったら、家事万能で人当たりがよく(俺に関しては適用されないが)人気者で、尚且つ努力家っぽいし、健康的な趣味もある。顔も悪くないしな。 オッサン「なんにせよ、紗耶ちゃんに想われてるヤツァ三国一の果報者だわな」 夏輝「ま、そうですね」 好きな相手に対してならドロップキックとか延髄切りとか叩き込まないだろうしな。 全く、そこは羨ましいよ、そこは、な! オッサン「……まさか、本当に覚えてないのか?」 夏輝「は?何をですか?」 オッサン「…………いやまぁ、いいか。俺の口からいうことでもねぇしな」 夏輝「いや、何かあるんですか?教えてくださいよ」 オッサン「いや、ダメだな。これは自分で思い出さなきゃなるめぇよ……っと」 勢いをつけて立ち上がるオッサン。 今まで肩に掛けていたタオルを頭に閉めなおして、仕事モードに変身したらしい。 オッサン「それじゃな。ヒマだったらまた来いよ。仕事手伝わせてやっからよ」 夏輝「キツい仕事はしたくありませんが、気が向いたらまた来ますよ」 再び大声で笑いながら船の方へと向き直って歩いていくオッサン。 しかし、それにしても。 俺は何を忘れてるというんだ? ……うーむ、思い出せそうで思い出せない。 紗耶と何かあったような気がしないでもないんだよなぁ…… 夏輝「うーむ」 自転車をこいで、通りがかった商店街。 目の前にあるのは自動販売機であり、なんともレトロな当たりつき。 中の商品も余すことなくレトロチック。 夏輝「瓶のコーラがマジで売ってる場所なんて久々に見たぞ」 財布から百円投入。 田舎の飲み物というのは得てしてリーズナブルなので、学生の身分である俺のフトコロに超優しい。 ついでに瓶飲料なので地球にも優しい。 どれ、くじの結果は……ハズレだな。 夏輝「ま、いいけどね」 自動販売機横のブロック塀に寄りかかって、自販機にぶら下がった栓抜きで瓶コーラオープン。 少し悩んだ末に、コーラの王冠はポケットに突っ込んだ。 泳ぎがちょっと上手くなるような気もするし。 コーラで喉を潤して、青い空を眺める。 流れていく入道雲は大きく、青と白のコントラストが夏を感じさせた。 思い出せない昔。 昔も俺は、ここでコーラを飲んでいたんだろうか。 百円ぽっちの支出でさえ、小さな頃には大きな買い物で。 自分で飲み物を買うということがひどく楽しい、大冒険だった。 今となっては二リットルのペットボトルで買い、必要な時に飲む効率主義が主流。 五〇〇ミリのペットボトルならまだしも、それこそ、こんな瓶飲料なんて数年後に残っているかどうか。 この島でさえ、いつかは近代化の波に飲み込まれてしまうんだろう。 水道が通り、電気が通り、ガスが通ったように。 現代技術は過去の産物をことごとく埋めていく。 足元によりそい、俺の脇に座した野良猫がニャーと鳴く。 夏輝「お、なんだ野良猫。食い物はないぞ?」 じっと見詰め合う。 ……かわいいっつーかたくましい顔つきだなコイツ。 夏輝「そうか、ウミネコか」 顔をゆがめてニャーと一声。 違うか。そりゃ失礼。 夏輝「……あ、スチロールの中にあったかな」 瓶コーラを一息に飲み干してケースに収め。 自転車と共に放置していた発泡スチロールをあけると、そこには丁度よさそうな魚が一匹。 夏輝「ほれ、野良猫。イワシ食うか?」 顔をゆがめてニャーと一声。 ああ、もらっとく。表情豊かだねお前さん。 トコトコと足元によってきたので、暴れる魚を掴み上げて渡す。 夏輝「ほれ」 イワシを咥えたままニャーと鳴いて、野良猫はどこかへと走っていく。 現金だな。つーか、咥えたまま鳴くとは器用だな。 魚は果たして自分で食うのか、それとも家族のためなのか。 それは知る由も無いが。 夏輝「好きに食えばいいさ」 再び自転車にまたがって、発泡スチロールを肩に掛けて、漕ぎ出す。 俺の家まであと何分か。 まぁいいさ。 BGMには事欠かないしな。 遠く、どこかの森から蝉の声が聴こえていた。 夏輝「ただいマスターガンダムー」 紗耶「おかえりー」 夏輝「突っ込み無し?」 声は台所からであり、姿は見えない。 さっきから響いている包丁の音からして、料理でもしているんだろう。 もしかして、紗耶の場合飛んでくるのは鍋蓋じゃなくて包丁? ……ブルブル。 紗耶「魚は玄関の隅にでもおいといて。明日の朝と夜はそれにするわ」 夏輝「い、いぇすまむ……そうだ、紗耶」 紗耶「何よー?」 夏輝「子供の頃さ、紗耶が溺れたって聞いたんだよね」 紗耶「……誰に?」 夏輝「漁師のオッサン。筋肉質なタオル男」 包丁の音が止んだ。 なんか微妙なタイミングだなぁと思ったが、リズミカルな音はすぐに復帰する。 紗耶「ああ、あの人か。あったらしいわね。私はなーんにも覚えてないけど」 夏輝「そうか、覚えてないのか」 紗耶「ええ、覚えてないわ」 夏輝「なんか俺、その時のことで『忘れたのか!』とか、『自分で思い出せ』って言われたんだけど、心当たりは?」 紗耶「…………さぁねー?忘れるくらいだし、どうってことないんじゃないの?」 夏輝「んー、そんなもんかなー」 なんか、ひどく重要な気がしないでもないんですがね。 具体的には俺の未来が決定されるような気がしてしょうがない。 夏輝「俺、部屋に戻ってるわ」 返事を待たず階段に足をかけて上り始める。 何をして暇を潰すかなと思考をめぐらせながら。 紗耶「……ま、忘れてもしかたないわよね」 夕食の声に呼ばれていってみれば、そこにあったのは。 夏輝「なんという桃源郷……いや、酒池肉林?」 白いゴハンにかけられた、直感的に食欲を掻き立てるルー。 ゴロゴロとした大きなジャガイモに、美しい御姿にカットされたニンジン、これでもかというほどに存在をアピールする肉。 沸き立つ湯気が、まるで蜃気楼のように世界を惑わせているではないか。 夏輝「カレー様がご光臨なされた!」 紗耶「アンタはなんの宗教にハマってるのよ」 夏輝「日本全国の健全な男子諸君はこの世にオギャーと言ったときからすべからくカレー教団の仲間だ!」 紗耶「いや、アンタは少し落ち着きなさい。国家単位で珍妙珍奇な教団を創立しないで欲しいわ……」 ふん、聴こえないね。 というか、カレーと聞いて心が振るわないヤツはダメだろう。 カレーを食わないやつはバカだ。カレーを食うやつは洗練されたバカだ。 …………人間、つまるところどっかしらバカなんだよなぁ。 欲望の為に人に何かして、騙し騙され、ああ、そういや俺だってどちらかというと夏休みにピザポテトだけで生活しようとするダメ人間なんだよなぁ、去年の夏休みは殆ど自宅に引きこもってたし。それに比べて世のカノジョ持ち諸君はしっぽりやってたんだろうなぁ…… 紗耶「なんで今度は凹んでるのよ!?ちょ、フラつかないでよ、危ないわね!」 夏輝「い、いや。ちょっと人間というか俺のあり方に疑問が……」 紗耶「はぁ?……ま、いいわ。とりあえず食べるわよ。片付かないし」 夏輝「ああ、そうしよう。ヒャッホゥ!カレーだカレーだ!」 紗耶「……本当に疲れるわね」 コップに水を入れて着席し、スプーンを構える。 いただきますを宣言してからスプーンを突き立て、まずはこの牛肉を――って、あれ? ……これは。 夏輝「ポーク?」 紗耶「ええ、ポークよ」 夏輝「邪道な!」 豚肉をカレーにいれるなんて! カレーに入れるべきものは、違うだろう! 紗耶「何よ急に……別に良いじゃない」 夏輝「カレーといえばビーフだろ、常識的に考えて!」 カレーといえばビーフカレー。 弁当といえば梅干くらいに当然だ。 カレーを作るときには牛肉を入れるのが基本ってもんだ。 誰だってそーする 俺だってそーする。 紗耶「それはアンタの好みでしょ?」 夏輝「いや、これは不文律だ。これだけは譲れない!」 譲れない想いは何よりも強いのですよ 紗耶「じゃあ、アンタは食べないのね?」 夏輝「俺ポーク大好き」 紗耶「陥落早いわね……」 夏輝「時代はポークですよ?」 ビタミン豊富だしな。 夏輝「よっしゃ!いただきまーす!」 の、『ま』のあたり。 突如として鳴り響いたのは玄関先の黒電話だった。 紗耶「ちょっと取ってくるわ。先に食べてて」 夏輝「あいよっ」 言われずとも食うけどな! カレーだぜカレー! スプーンを突き立て、カレーソースとライスを掬い上げて口の中へ。 瞬間、口に広がるのはカレーの芳醇な香りと、肉のうまみ。 否、肉だけではない! ジャガイモ、ニンジン、タマネギ……ありとあらゆる野菜が互いを引き出しあい、最強の味を出しておる! くやしい、でも……スプーン、止まらないのぉ…… カレーの山に対して、もう一度スプーンを構えて―― 紗耶「ちょっと、アンタに電話よ?」 夏輝「……シット、こんなタイミングに!」 紗耶「いいから早くでなさい。別に逃げないでしょ?」 夏輝「誰から?俺の友達?」 紗耶「阿部さん」 夏輝「一方的、かつホモ達かー……気がのらねぇー……」 とはいいつつ、電話に出ないのはあまりにも失礼なので電話の元へ。 手になじんだ黒電話の受話器を取り上げて、電話に出る。 夏輝「――タダイマ、コノ デンワバンゴウ ハ ツカワレテオリマセン」 阿部『おいおい、今さっき紗耶ちゃんが出たじゃないか』 夏輝「ちっ……なんですか、阿部さん。俺これから飯なんですけど?」 阿部『ふっ、その声を聞くだけで俺の股間がはちきれそうだぜ、ナッちゃん』 夏輝「切りますね」 阿部『ちょっと待つんだ!これは大事なことなんだ!』 夏輝「なんですかもう」 阿部『カレー、チキンもありだよな?』 夏輝「待てコラ!どこに盗聴器仕掛けてるんだよ!!?」 阿部『ふっふぅ!なぁに!悪用はしないさ!せいぜいナッちゃんの寝言を俺のカーステレオで流し続けるくらいさ!』 夏輝「犯罪だぁぁぁぁぁ!」 その後、切れてしまった電話を放置。 カレーを速攻で食べてから(三杯)、俺は家中のコンセントを外して回った。 ちなみに、見つかったのは三つ。 内一つは台所、二つは俺の部屋でした。 ――母さん、俺の貞操が危ないです。 Fin.