周りには聞きなれた声。 足元には強い日差しを受けるコンクリート。 今さっき海の家で買った瓶サイダーを一口。 ほどよく温くなって炭酸が抜けた、甘ったるい味が口に広がる。 キンキンに冷えたサイダーも良いが、炭酸が抜けきったサイダーもまた乙なもんだ。 さっきのビーチバレーのように全員で遊ぶのも良いが、一人でこうやって海を眺めるのもいいだろう。 サイダーを携えた俺は今一人で、熱された鉄板のような熱さとなった埠頭に素足で立っている。 イメージ的には陽光に熱されたマンホールの蓋。 すんげぇ、熱い。 ええ、サンダルはさきほど壊れましたが何か? 夏輝「安物はこれだから困る」 波に晒されているのは、サイダーと一緒に買った俺のサンダル(680円)。 色は黒で、底面に白抜きで描かれた『荒巻』と勘亭流で書かれている。 なんだこれ。 根性キーホルダーとかを買い漁りたい俺としてはむしろ喜ばしいことなのだが。 しかしこのサンダル、波に持っていかれないように頑張っているが、いつまで持つだろう。 いや、それよりも。 夏輝「――その根性を私のときにせてよ!馬鹿ぁっ!」 沙耶「なに突っ立ってるのよ?」 夏輝「海風を感じてました」 沙耶「変わり身早いわね。やっぱり気持ちいい?」 夏輝「気持ち良いけど、今日は早めに風呂に入りたいぜ」 もも「お兄ちゃーん!!」 なにか黒いものを振り回しながら俺を呼ぶももに手を振り返す。 目をよくよく凝らしてみれば、それはももの手の中で小さく動いている何か。 ナマコだろうか。 夏輝「それ投げるなよー!つーかよくそんな普通に持てるよな!俺には無理だー!」 もも「えへへー!海の中にたくさんいるよー!っわ、うきゃあ!」 あ、こけた。 白い光を返す水飛沫がまぶしい。 それとは対照的なナマコが美しい弧を描いて飛行し、もう一度海の中へ。 お疲れ様です。 夏輝「で、大丈夫なのか?」 沙耶「毎日海に入っているんだし、あれくらいはよくあることよ」 夏輝「……みたいだな」 慌てて駆け寄ってきたあやめ姉の手をとって立ち上がるもも。 なまこももがふたたび海に潜っていく姿を見送りながら伸びを一つ。 吹く風に服の裾をもてあそばれながら、絵葉書に描かれているような風景を眺める。 島の何処で見上げても同じような空。 変わらない場所。 故郷というならば、なるほど確かに。 目まぐるしい変貌を続ける都会より、この島の方が『らしい』といえば『らしい』。 沙耶「で?アンタは入らないの?」 夏輝「何のことだいジェニファー」 沙耶「誰よそれ。折角みんな海に入ってるのに、アンタだけ入らないのもねぇ」 潮騒を奏でる海は広く深く、場所によっては足が着かない。 そんな場所に入れというのか…… 夏輝「……」 沙耶「心底嫌そうな顔ね」 夏輝「……俺たちの先祖は遥か昔にこの大地を踏みしめたんだ。俺は彼らに敬意を表するため、海に戻りはしない」 陸上生物としての誇り。 海から這い上がってきたのは、知恵と勇気と情熱を持っていた証拠。 それゆえに我々は今ここに立っている! 息を吸える!息を吐ける!Happy go lucky! だから、この陸地を見捨てて海に逃げるなんて―― 夏輝「出来ないんだ!」 ズビシィッ!と沙耶に向けて人差し指を突きつける。 これで俺の陸上生物としてのプライドを理解していただけただろう。 ……あれ? 夏輝「なあ」 沙耶「何?」 夏輝「何その姿勢。体当たり?」 右肩を前に出した低姿勢。 両の足でコンクリートを踏みしめ、辺りに闘気が舞い始める。 沙耶「んー、ショルダータックル?」 夏輝「なるほどなー。ちょっと待っとけ」 全く、誰だこいつにプロレスを教えたやつは。 ……息を吸ってー、止めてー。 よし、覚悟完了! 夏輝「バッチコイ」 沙耶「行くわよー」 夏輝「とみせかけて回避!俺は精神コマンド『集中』を使用ッ!」 沙耶「バレバレね!直撃させるわ!」 夏輝「ラリアットだと!?」 沙耶の二の腕に、さきほどためた酸素もろとも、首が持っていかれる。 普段ならそこで原則を始めるというのに、今回は違う。 夏輝(加速……!?) 酷い重力に混じって感じられる、ふにゃりとした感触。 思い返すのは、父が言っていた言葉。 父『いいか、夏輝。二の腕ってのは乳に一番近い感触なんだぞ……』 夏輝『知らんがな』 父『ふはは、そう輝いた目をするなよ』 夏輝『聞けよ、つか輝いてねぇよ』 父『ところで夏輝、心ってのは何処に在るかわかるか?』 夏輝『……心臓か脳?』 父『心は、魂だ。心無い人間に魂は無い。そして夢は何処に在ると思う?』 夏輝『どこだ?』 父『胸だ、おっぱいだ、バストだ』 夏輝『……』 父『お前にもいつかわかる。あの感触はまさに夢の結晶だと……』 夏輝『母さーん、ここに変態がいるよー』 父『むはははは!男として当然の欲望に対して何を言ってあだだだ!耳っ、耳は勘弁して!』 無言で引きずっていく母さん。 懐かしい風景だなぁ。  数ヶ月前だけど。 夏輝「つまり二の腕=夢!」 沙耶「沈めぇッ!」 夏輝「世界が回るぅー!」 青の雫を空へと舞い上がらせて、俺と沙耶は海の中へと飛び込んだ。 まず視界を覆ったのは水の色であり、耳を伝う音は小さな波の音。 澄み渡った青がどこまでも、どこまでも広がっていた。 積み重なった砂たちと無骨な岩、逃げていく魚たち。 何の芸術性も考えずに、ただ『ある』だけの風景。 欲望も計算も何も無い、純粋無垢な美しさ。 夏輝「ぶはっ!ハァ、ハァ……」 海中から一転し、陽光降り注ぐ水上へと飛び出した。 濡れた顔を撫で付ける風の冷たさと、肺を満たす空気の美味さを感じて。 時をほぼ同じくして、沙耶が水中から顔を出す。 夏輝「お前は俺をコロスケか!?」 沙耶「とりあえず落ち着きなさいよ」 夏輝「失敬。では改めて。お前は俺を殺す気か!」 沙耶「だってこうでもしないと入らなかったでしょ?アンタ泳げないんだし」 夏輝「泳げるけど泳がないんだ。つか突然水に入るのはマジ危険だから気をつけろ!」 沙耶「大丈夫よ、アンタはガス災害が起きても助かるわ」 え?俺ってそんな強靭な生命体だったの? 沙耶「で、本当は泳げないんでしょ?」 夏輝「……黙秘権を行使する」 沙耶「はいはい」 言ったとおり、泳げないわけではない。 現に今だって立ち泳ぎをしている。 五十メートル以上を泳ぐことが出来ないだけだ。 もちろん、十中八九バカにされるだろうから、沙耶には言わないが。 沙耶「さて、こうして陸上のナマモノを海に叩き込んだところで」 夏輝「ナマモノ扱いかよ」 沙耶「これからどうしようかしらねー。遠泳でもする?」 夏輝「その距離は?」 沙耶「えーと、そうね」 良いながら細い人刺し指――じゃない、人差し指を伸ばす。 指差した先にあるのは小さなブイ。 といっても、この距離だからこそ小さく見えるだけだろう。 ……遠いなぁ。 沙耶「あそこまで」 夏輝「いや、だから距離は?」 沙耶「さぁ……ニキロか三キロくらいじゃないかしら」 何その死亡フラグ? つかそれを往復するの? 夏輝「それは無理だ。体力が続かん、つーか上がろうや」 沙耶「えー?まだ入ったばっかりじゃない」 夏輝「とりあえずほら、なんか食べようぜ。小腹が減ったんだ」 沙耶「……うーん」 渋りますね。 そんなに泳ぎたいなら一人で泳いで来くれば良いのに。 言わないが。 夏輝「今なら海の家でのおでんがついてくる、俺の金で」 沙耶「アンタの分のたまごもくれるなら考えるわよ?」 夏輝「くっ……良いだろう」 沙耶「じゃ、何をするかはとりあえず海の家で考えましょ」 そして海の家。 木造建築二階建て。 海の家というよりは、民家の一階部分を食堂にしただけといった佇まいだ。 紗耶「おばちゃん、おでん二つお願いね」 夏輝「あと水二つで」 おばちゃん「いらっしゃい、もも達は海かい?」 笑顔で出迎えてくれたのはふくよかなおばさんだ。 おばさんはレトロな花柄エプロンをはためかせながら鍋へと歩いていく。 紗耶「うん。おじさんは?」 おばちゃん「あのロクデナシだったら今頃は祭道具の整理に狩り出されてるよ」 夏輝「祭?」 おばちゃん「ああ、夏輝ちゃんはもう覚えてないのかい?」 蓋をあけておでんの温度を確かめつつ、「どうよ?」といった感じの目線を送られる。 しかし、紗耶の顔すら忘れていた俺がそんなことを覚えているはずも無い。 仕方ないので俺は肩をすくめてみせる。 おばちゃん「やれやれ。時間ってのは酷いもんだよ」 夏輝「……」 おばちゃん「私だって昔は島一番の美人でねぇ……」 二つの皿に盛られたおでんをテーブルの上へ。 たまごに大根、はんぺん、つみれ。 オーソドックスながらも王道であり、最高の組み合わせのおでんたち。 暑い中で熱いものを食べられるということは一種の贅沢ではなかろうか。 紗耶「『村中の男から告白された』?」 おばちゃん「よく覚えてるじゃないのさ」 紗耶「だって島中の女が言ってるんだもの、覚えないほうがおかしいでしょ?」 おばちゃん「困ったもんだねぇ!」 紗耶「この島は日本一美男美女が多いわね。全員が自称だけど」 おばちゃん「大丈夫、アンタ美人さんの一人だからさ!ほれ、たまごサービスしといたからね!」 紗耶「ありがと、さすがに島一番の美人さんは気前が良いのね」 笑いながら台所へと戻っていくおばちゃん。 あれ?祭のことは? 紗耶「さて、それじゃあたまごは貰うわよ?」 言うが早いか、すっと伸びてきた割り箸が俺のたまごを浚っていく。 夏輝「うわマジで持っていくのかっつーか二つとも!?容赦ねーな!」 紗耶「代わりにこれをあげるわ」 夏輝「昆布かよ」 紗耶「一応特産品よ?」 渡されたのは昆布(一つ)。 コンビニのおでんにあるようなペラペラのとは比べようも無い分厚さだ。 随分と豪快なおでんだ。 夏輝「……美味いな」 紗耶「この辺りでで獲れるもので美味しくないのなんて無いわよ」 おーおー、またまた自慢げに。 夏輝「ま、そういうことにしておいてやるよ……」 紗耶「たまごはあげないわよ?」 夏輝「……二つ持ってかれるなんて聞いてないんですが」 紗耶「なにか言ったー?」 夏輝「なんでもありませんサー」 もう諦めざるを得ないなこれは。 たまごを交渉材料にしてしまったのが間違いだった。 夏輝「さようなら、たま子……」 紗耶「誰?」 夏輝「メガネかけてそうじゃね?」 紗耶「?」 笑顔でもなく冷たい目でもなく、心底わからないといった表情。 自分のネタが理解されないのは、すべる以上に悲しい。 むしろ恥ずかしい。 夏輝「そんな目で見るな、そんな目で見るなぁっ!」 紗耶「ま、いいけど。この後どうするの?」 夏輝「この後って?」 割り箸を割る。 む、なんか割れ方が汚いな。 紗耶「いや、海で泳ぐんでしょ?」 夏輝「別に海で泳ぐ必要はなくね?」 んじゃ、まずは基本の大根でも頂くか。 湯気を立てる大根に箸を突き刺す。 夏輝「うお、すげぇ!」 穿たれた穴から、大根の中に封じられていた汁があふれ出す。 意識せずとも喉が唸りを上げる。 ……俺、夏休みが終わった後の食事に満足できるのかなぁ。 ここに来てからというもの、舌が肥えすぎな気がする。 夏輝「しかしまぁ、据え膳食わぬはって言うしな」 意味、違うけど。 紗耶「ん?何か言った?」 夏輝「あー、いや、とても美味そうだと」 紗耶「確かにここのおでんより美味しいのは食べたことが無いわね」 夏輝「海の家のおでんは不味いってのが相場なんだがな」 大根を口へ運ぶため、箸を当て、持ち上げる。 夏輝「なっ、なんだと!?」 この大根……箸で持ち上げようとすると……崩れる!? 否、これはギリギリのライン! 箸で持ち上げるのに、ギリギリ耐え切れる塩梅に調整されている! あと少しでもやりすぎれば箸でつまんだ瞬間に崩れ落ちる……正に極みだ! こんなこと、果たして普通の人間に出来るか……? 夏輝「おばちゃん……恐ろしい子」 紗耶「アンタのリアクションにも慣れてきたわねー……」 夏輝「え?だめ?」 紗耶「別にいいけどね。で、どうするの?」 くそ、話題の転換は不可能か! 紗耶「海に入らないにしたって、ここでぐだぐだするのも楽しくないでしょ?」 夏輝「そりゃまぁ、そうだが」 紗耶「んー、どうす……」 ……あ、紗耶の顔色が変わった。 まるで声を失ったように黙り始める。 なにかあったのだろうか。 夏輝「どうした?」 紗耶「そ、それ……」 夏輝「それ……って、うぉっ!!?」 紗耶が指差したのは俺の背後。 木で出来た壁の上、なんとも気色の悪い虫が佇んでいた。 長い触角を持つ、平たく、浅黒い色をした虫。 その特徴だけを挙げれば、俗に言うフナムシなのだが…… 夏輝「いや、サイズがおかしいだろ!」 大きさが十センチくらいあるんだが。 気持ち悪っ! まだ動いていないだけいいものの、これが動いたらトラウマモノだよ。 夏輝「つか、ずいぶんどっしり構えてるな」 全く動かない。 死んでいるんじゃないかと思うほどに静々としている。 この雰囲気は…… 夏輝「王様?」 あ、触角動いた。 「いかにも」とでも言いたいんだろうか。 紗耶「い、いいからさっさとそれどっかにやってよー!」 夏輝「はいはい……よいせ」 新しい割り箸を割り、それでつまむ。 釣りエサとして使われるくらいだし、フナムシくらいは大丈夫だ。 「何をするー!」と言わんばかりに暴れるフナムシ。 すいませんね。 夏輝「落ち着けって……と、あ」 落ちた。 紗耶の横に。 紗耶「…………」 夏輝「…………」 フナムシさんと俺と紗耶の間が静寂で満たされる。 数秒の後、最初に動いたのはフナムシさんだった。 まずは触角を小さく動かす。 紗耶の息を呑む音が聞こえた。 ガサガサガサガサガサガサガサ! 紗耶「△□#!(&?”」{:*!!!!!!!!」 その悲鳴は島全体に響き渡ったとかなんだとか。 その後、フナムシの王(仮)は海の家から追い出され、岩場の陰へと消えた。 そして俺は紗耶に半ば押し切られる形で海へと戻ってきたのだが…… 紗耶「やっぱりアンタの言うとおりにしたらろくなことなんて無い!」 夏輝「え?俺のせい?」 紗耶「そうよ!アンタのせいよ!」 夏輝「御無体な」 紗耶「うるさいッ!」 浮き輪に座る紗耶を俺が押す。 いや、たしかに大して泳がなくても良いし楽っちゃ楽だけど。 夏輝「……あのー」 紗耶「な・に・よ!」 夏輝「なんでもないです」 太陽の位置はまだ高い。 Fin.